일반불교

「心の構造」と「悟り」について (「마음의 構造」와「깨달음」에 대하여)

현관 2013. 8. 18. 10:30

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本論は原始仏教・部派仏教・初期大乗・唯識教学を中心に、「心の構造」と「悟り」をめぐる教義を考察する。その中で自性清浄心は重要な位置を占めるが、これは心性を固定的なものとみる一面を持っている。しかし、仏教は一切法を無常・刹那滅と考えており、心を固定的なものとは考えない。ここで取りあげる経論が自性清浄心を論じるときに、心性を「固定的」にとらえていないかどうかを確認しながら検討していきたい。(1)
一原始仏教と部派仏教における自性清浄心心は煩悩に覆われているが本来的には清く輝いている。この思想は原始仏教の時代から説かれていた。パーリ「増支部経典」は次のように述べている。われわれの心は本来光り輝いているが、現実には客塵煩悩によって雑染されている。しかし仏弟子は心が明浄であることを如実に理解しているので、客塵を除くために心を修習する。(2) この経典は清く輝く心を念頭に置いて、聞法と心の修習が悟りへの道であると教えている。
また漢訳『増壱阿含経』(巻二二)は次のように述べている。心性極清淨斷魔邪惡念(大正二.六六三下)『増壱阿含経』の「心性」という表現は、不変で固定的な心の本質を現しているとも読み取れる。しかし、原始仏教は
外教が説く常住不変の実体に対して、経験可能な現象界を考察の対象にしていた。この点から考えると、「本性」という表現も、実践論的な立場から、修行によって心は清浄になりうることを主張しているとみられる。原始経典で自性清浄心を説いているのはこの二つであり、自性清浄心は重要なテーマではなかった。
次に、部派仏教で自性清浄心を説いた部派として、『随相論』と『異部宗輪論』は大衆部について記し、『舎利弗阿毘曇論』は法蔵部系の部派(水野弘元氏説) について、また『大毘婆沙論』は分別論者や一心相続論者について記している。
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