私たちの存在は「心」と「身体」から成り立っています。このうち、「こころとは何か」という問いかけから心理学が発達してきました。仏教、特に唯識思想は、識、すなわち心しか存在しないという立場から現代の心理学に勝るとも劣らない心への観察と分析とがなされ、その結果、これまでみてきたような深奥な規模の、いわば”心理学”を打ち立てました, ここで問題としたいのは、識、すなわち心しか存在しないという立場から現代の心理学に勝るとも劣らない心への観察と分析というところです。先ず「心しか存在しないという立場」というのは、どういうことでしょうか。若し心がカタチとして存在していることを意味するのであれば、そのカタチの奥に在る「こころ」が認められていないことになります。本来、識という概念は現象としての心の奥に在る根っこともいうべき「こころ」のことではないかと思うのです。そうでないと深奥とはいえますまい。その根っこである「こころ」には特定のカタチがないので、「こころ」そのものということになります。それを唯識というのではないでしょう。だから現代の心理学がやっているような観察と分析ができないはずです。識にはカタチがないからです。つまり現代の心理学とは次元が違うのです。勝るとも劣らない、という比較ができません。
일반불교